少女は碧に包まれていた。
雲一つ無い抜けるような空。
果てしなく広がる紺碧の海。
足の裏を灼く塩の如き白い砂浜。
鼻孔を擽(くすぐ)る潮の香。
耳に心地よい潮騒の響き。
今、ここにあるのは、混じりっけなしの碧い世界と自分一人。
不思議だ———と少女は思う。
少女にとって海とは、———野や山や森と同じく———戦場の一つでしかなかった。
ある時は、雪交じりの寒風が吹きすさぶ中での寒中水練。
あるいは、『九蛇卵(くだら)』との模擬戦。
なかなか息継ぎのタイミングを掴めず、頭が破裂しそうになるほど苦しかった事。
堪えきれずに呑んでしまった潮の味の苦かった事。
そんな思い出しかない。
それでも、使命と鍛錬とでがんじがらめな生活の中で、ほんの一瞬だけ訪れる無為の時———自由時間———に少女は良くこへ来ていた。
戦場でない海が嫌いではなかった。
どうしてだろう? と少女は思う。
ここに何があるからなのか?
それとも、何もないから好きなのだろうか?
少女は海を見るたびに考えた———。
ふと、あることに思い至る。
海は月の還る褥。
新月……三日月……半月……満月……月の有り様が毎日変わっても、海は決して月を拒んだりしない。
夜の國を旅してきた孤高の———少女が自らを重ね合わせる———月をただ抱き留めるように受け入れる海。
その様はあるものを連想させる。
記憶の欠片すら存在しない幻の影。
少女に命をくれた人……母親。
『御神娘(みかみこ)』の印を刻まれて生まれてきた少女と物心の付く前に引き離され、それきり会ったことはない。
現在の消息はもとより、名前すら知らされていない。
『御神娘』に母などいない。『大蛇神(おおみかみ)』に選ばれた貴き捧げものなのだ。
生みの親など、かりそめの腹を貸しただけのただの女でしかない。
少女はそう教えられた。
海はすべての命の母———何処かでそう聞いたことがあったけれど———だからそう思うのか? そんな事をぼんやりと考えているうちに、かりそめの自由時間は過ぎていき。
少女は答えを見つけ出す間もなく、戦場へと還っていく。
そして幾星霜の刻が流れて。
瞼の母を希(こいねが)う歳もとうに過ぎて。
手足は伸び、胸は膨らみ、少女は『御神娘』となった。
少女は、今日も海を見ている。
変わらずにあるのは、少女と空と海原と砂と潮騒———。
そして———。
もう一人の少女。
日之宮媛子。
関東圏の某海水浴場。
砂浜を千華音と媛子は歩いていた。
海水浴を楽しむには少々季節はずれで、浜にはサーファーたちの姿がちらほら見受けられる程度だ。
泳ぐのは大の苦手だけれど一度、水着を着てはしゃいだりはしてみたい。
と願う媛子に誘われ遊びに来たのだ。
千華音が着ているのは、マリンブルーの超ミニのビキニ。
別に千華音の趣味という訳でもない。
むしろ露出の派手な水着は闘いの中で生きてきたゆえか、妙な不安感をあおり立てる。
理由はただ一つ。
水着売り場で何度も何度も何度も試着を繰り返した末に、媛子が紫水晶(アメジスト)色の瞳を輝かせてこれを喜んだから———それだけだ。
当の媛子自身は、白いワンピースの水着に薄手のシャツを羽織った地味な姿だ。
本当はね、千華音ちゃんとお揃いの水着とか着られたら良いんだけど、でも、私じゃ全然似合わないし……だから。
媛子はそう言って無邪気に笑う。
無垢の笑い。
幼子の笑い。
子犬の笑い。
千華音の中で『何か』がまた大きくなる。
いや、もはや『何か』などと言う不確かなものではない。
千華音の隣で他愛ないお喋りを囀(さえず)る少女。
日之宮媛子。
髪をかき上げるその仕草が。
紅茶色の髪の残り香が。
波に触れる白い指先が。
薄手のシャツ越しに見える胸のふくらみが———。
浜の日射しを浴びた白い脚が。
媛子の何気ない行為の一つ一つが、それと気付く前の何倍もの熱と輝きを持って、千華音の心に焼き付けられていく。
媛子が砂浜に残した小さな足跡や、可愛いつま先を洗った波まで、目が離せなくなってしまうほどに。
世界はこんなにも眩しく煌めいて、過ぎ行く時はこんなにも甘く、芳しい。
そう。千華音は、媛子に———。
【違うわ……】
千華音の心に、突き刺さる叱咤の声。
内に住まう影、『棘』の声だ。
それは十五年間、血と炎の中で育まれた千華音の生そのものが凝り固まり、結晶化し形を成したもの。
小さく、鋭く、ぞっとするほど冷たい棘。
尖った返しの付いた毒蜂の針のように、永久氷壁から削り出された氷の針のように、抜けることなく、熔ける事無く、心の隅に突き立ち、脈打ち、震え続ける。
もう一人の千華音なのだ。
『棘』は千華音に囁き続ける。
【思い出しなさい。
皇月千華音が何物なのかを。
あなたは命を大蛇神に捧げる為だけ生まれた人形。
杜束の島を治めるのは、国の法でも、社会道徳でも、唯一神の教えでもないの。
それは大邪神の定めた神事。
皇月家の栄誉のため。
杜束島の歴史と未来のために。
ただ『大蛇神』の御為(おんため)に。
千華音はそのための戦士、選ばれし神具なのよ】
その通りだ———と千華音は思う。
全ては勝つための戦術———いや違う。もう千華音は勝っているのだから。
だから、これはあくまで『余暇』。
偶然手に入った『余録』のようなものだ。
二人の十六歳の誕生日、『運命の日』。
『奉天魂(ほうてんこん)』までの時間潰し。
こんな気持ちになってしまったのは……。
あまりにも空と空の碧が眩しすぎて。
潮騒の響きが心地よすぎて。
ふと心が緩んで、浮かれてしまったからだろうか?
大丈夫……。
私は油断などしない。
絶対にしない。
媛子が産毛の先ほどでも敵意を見せたのなら、次の瞬間には全てを終わらせられる。
千華音は、千華音自身をそう造り上げて来たのだ。
だから、違う。
違うのだ。
『何か』の正体がなんだというのか?
そんなものは認めない。
認められて良いはずがない。
絶対に。
『棘』の放つ正論の冷気が、千華音の想いと温もりを責め立て、凍えさせていく。
これで良いの……これで。
千華音は『棘』に己を重ねていく。
私は月。
一切の熱を持たないただの輝き。
住まうのは冴え冴えと輝く氷の城———。
それだけが私。
『御神娘』、皇月千華音———。
なのに……?
なのに何故…………?
氷の城壁に亀裂が奔(はし)る。
千華音の爪が、二の腕の白い肌に食い込んでいく。
どうして?
蜜漬けの夢から醒める為?
それとも、運命の大氷壁に抗う為?
私は何をしているの?
何故、こんなに揺らいでいるの?
何故、こんなに乱れてしまうの?
違う。
間違っている。こんな私は……。
その時———。
「千華音ちゃん?」
媛子の不安そうな声が千華音を現実世界の砂浜に引き戻す。
「何……?」
静かに答えつつも千華音は思う。
まさか、顔に出てしまったのだろうか?
隠している『想い』が。
いけない。
媛子に見せてはいけない。
絶対にいけない。
もし、媛子に気付かれてしまったら……。
そう考えるだけで、千華音は肌が泡立つような戦慄を覚える。
『御神娘』に相応しくないからか?
『敵』に弱味を見せるべきではないから?
確かにその通りだ。
でも、それだけが理由ではない。
その奥底に潜んでいるモノこそが、『戦慄』の正体なのだ。
「……私ばっかり……しゃべっちゃったね」
千華音の内なる想いなど知るはずもない媛子が、恥ずかしそうにてれてれと頭を掻く。
外見以上に幼さを感じさせる拙い仕草。
こんな時に千華音がかける言葉は決まっている。
何を気にしてるの? 可笑しいわね。
それで、どうしたの? 続きを聞かせて頂戴? 媛子。
媛子の不安や戸惑いは、千華音の『お姉さん』な態度や言葉で受け止め、優しく優しく解きほぐしてあげる。
それが何度も何度も繰り返してきた『お付き合い』の作法。
夕暮れの植物園で。
駅の改札口、その別れ際で。
雨宿りしたバス停の待合室で。
何度も、何度も、何度も、何度も。
しかし、その言葉を口にするには、今の千華音の心は、あまりにもかき乱れ過ぎていて。
千華音がその『想い』に気付いてしまった今では、するりと口にするには、重々しく、苦く感じられて。
口にするのがほんの少し遅れてしまった———。
半瞬の間も無い、静寂が過ぎて。
そして———。
「きゃ!?」
突然の波飛沫(なみしぶき)に驚いた媛子が、小さく飛び跳ね、千華音の腕にしがみつく。
千華音も媛子を咄嗟に受け止める。
二人の肌が直に触れ合う。
媛子の肌———。
柔らかさが、ぬくもりが、
午後の日射しよりも熱く、千華音の肌を、思いを、容赦なく灼き焦がす。
『棘』の氷壁に亀裂が疾るのが判る。
ああ、まただ。
何が氷の城だ。
頬を赤く染めた媛子が、すべてを委ねるように千華音の胸に身体をあずけてくる。
千華音の全身を痺れるような喜びが駆けめぐる。
応えたい。
抱き締めたい。
強く———。
「!!」
次の瞬間、羞恥と怒りが……千華音の脳裏を駆けめぐる。
まただ!
どうしてこの娘は、私をこんなにも、こんなに———。
抗うように、千華音の腕が媛子を振り払い、突き放す。
決して強くも荒々しくも無いつもりだったが、媛子はペタンと砂浜に尻餅を着いてしまう。
「千華音ちゃん?」
千華音を見上げる媛子と千華音の眼差しが重なる。
地に伏したものを睥睨する天空の月。
出会った時の二人———千華音と媛子、二人の『御神娘』の正しい形だ。
媛子が大きく目を見開く。
驚きと戸惑いに揺れる子犬の目。
千華音の突然の変化に、何が起こったのか、理解できない。
その瞳が潤む。
咲き誇っていた『万華鏡』の華が萎れるように、崩れていく。
それだけで、胸が痛む。激しく痛んでしまう。
しかし千華音の口を突いて出たのは、まったく逆の刺々(とげとげ)しい眼差しと言葉だ。
「熱苦しいの……あなた」
煮えたぎる苛立ちと、渦巻く焦燥感の万分の一も込められてはいない呟き。
「……」
それでも、自分の心が氷の針となって媛子の胸に突き刺さるのが判る。
「……ちか……」
「こないで」
立ち尽くす媛子に、吐き捨てるように言葉の鞭を叩き付け、千華音は踵(きびす)を返し、歩き出す。
「千華音……ちゃん」
媛子の震えるような呟きを後に残して。
千華音は歩いていく。
その足取り、心の重さと反比例するように早くなっていく。
これで良い。
これが当たり前なのだ。
千華音が媛子の『一番大切な人』などに成れる筈がない。
二人は『御神娘』なのだから。
必ず殺し合う二人なのだから。
これが当たり前なのだ。
なのに、何故こんなに胸が引き裂かれるようにひりひりと痛むのだろう?
去り際に目にした今にも泣き出しそうな媛子の顔が。震えるような声が。縋り付くような眼差しが。
どうして千華音の眼に焼き付いて離れないのだろう?
正しい事を口にしているだけの自分を、こんなにも憎々しく、許せないと思うのだろう?
何をやっているの。私は?
何てことをしてしまったの?
千華音の心は波立ち、苛立つ。
それは、『棘』の冷気を圧して激しく吹き荒れる熱い嵐だ。
その嵐の名は———。
「媛子……」
千華音の唇が答えを紡ぎ出す。
日之宮媛子。
『日之宮』の『神御娘』に。
見つめられること、触れられること、抱き締められること。
そしていつか来る『御霊鎮めの儀』。
『奉天魂』の運命も。
芽生えた想いに気付く前と今では、その全ての意味がまったく違っているのだ。
昼と夜が違うように。
光に満ち、命と音が溢れ還る芳醇な世界。
しかし、そこに完璧な調和と孤高の静謐は残されてはいない。
そう、昼に月は煌々と輝くことはできない。
それなら———。
千華音は、どうすれば良い?
何百回、何千回、何万回と繰り返される己への問い。
千華音が十五年間の間に積み重ねてきた生き方は、何の応えも示してはくれない。
千華音は思う。
今まで歩んできた生き方は、何と判りやすく、単純なものだったのだろう。
何度も何度も躓(つまづ)き、倒れ、それでも立ち上がって歩いてきた闘いの道。
それがいかに苦しく辛いものだったとしても、目指すべき『到達点(ゴール)』は最初から見えていたのだ。
だが今は———。
内なる『棘』が、またも千華音を嘲笑う。
【やれやれ……。
滴る蜜の甘い薫りが、そんなにも忘れられないと言うの?
あなたはどうしたいの?
このまま———うす甘い『お付き合い』を十六歳の誕生日……時間切れまでの遊びと割り切って楽しむつもりなの?】
違う。
と千華音は思う。
そんなに不誠実なことができるはずがない。
それは、口汚く罵ることより、言われ無き暴力を振るうことよりも……何倍も何倍も残酷で卑劣な行為……そう思えてしまうのだ。
【何故?】
『棘』は執拗に反駁(はんばく)を繰り返す。
【安っぽい綺麗事ね。
嬲(なぶ)ろうが、愛(め)でようが同じ事よ。
所詮は生け贄、その手で殺すはずの相手でしょうに】
違う。
それは違うわ。
『御霊鎮めの儀』は。
『奉天魂』は殺しなどではない。
杜束島の『大蛇神』に『御神娘』が奉る聖なる神事。
島の未来と命を育む為の尊き儀。
だからこそ、その手を卑劣な行為で穢すことは許されない。
そう反駁しつつも千華音は思う。
何処かが咬み合っていない。
理屈も何もなく。
軋(きし)みあって、歪んで、ぶれ始めている。
何処かがおかしい。
『遊び』ではない。
千華音がモノを知らない子供だから、そう思えてしまうのだろうか?
それとも———。
もし、そんな風に簡単に割り切れるのなら。
何時捨てても惜しくはない暇つぶしの玩具だというなら。
それはきっと違うものだ。
千華音の中で、光と熱を放ちながら荒れ狂っていたりはしないのだ。
しかし、『棘』は尚も言い放つ。
【なにを言うの。今更。
『到達点』が見えない? 馬鹿なことを言わないでちょうだい。そうやって何時まで気付かないふりを続けるつもりなの?
判らないなら何度でも教えてあげる。
何度でもね。
いいこと? あなたは。あなた達は……。】
その時。
足下に打ち寄せる波とその冷たさが、千華音を再び現実の世界へと引き戻した。
千華音は振り返る。
見えるのは白い砂浜と、打ち寄せる波と、千華音が刻んだ足跡だけだ。
千華音は大きく息を吐くと、踵を返し、歩き出す。
とにかく戻ろう。
このまま砂浜を歩き続けても、何も始まらないし、何も終わらないのだから。
早く媛子の所へ戻って———。
そして……私は……
私は、何をすればいいのだろう?
判らない訳じゃない。簡単だ。
一人でしょげ返っている媛子を慰めて。
紅茶色の髪を優しく撫でてあげて。
それから海の家にでも寄って、スイーツをご馳走して……。
これもまた『お付き合い』の『作法』だ。
でも……
何かが違う……それではいけない気がするのは何故なのだろう?
気持ちが纏(まと)まらぬまま、それでも千華音は歩き出してしまう。
その時、そのつま先に何かが触れた。
「?」
足下に視線を落とすと、砂の中から突き出した何かの欠片が煌めいているのが見える。
千華音は腰を落とし、欠片を拾い上げる。
淡い緑色をしたそれは、
波に洗われて丸くなった硝子玉だ。
寄せては返す波濤(はとう)に洗われ、人工物であることをやめてしまったようなそれを、千華音は太陽に翳(かざ)してみる。
プリズムを浴び、鮮やかに煌めくそれを見て、ふと千華音は思う。
これは媛子に似合うかしら。
そう言えば―――六月のある『お付き合いの日』―――媛子はジューンブライドとかエンゲージリングとか話していたわ。
「女の子同士でするものなの? それ?」
と聞いたら、
「そっかぁ……お、おかしいよね」
媛子はまた考え込んで、そして走り回る独楽鼠(こまねずみ)のようにせっせと答えを紡ぎ出す。
「でも、私はきっと千華音ちゃんとしかこういう事できないし……だってほら、時間とか相手とか選べないよね……」
「そう……だから、仕方なく私と……そう言うこと?」
そう意地悪に返したら、耳まで真っ赤になって否定していたっけ。
百も承知の筈のその答えが、何故あんなにも快く耳に響いたのだろう?
本物の指輪を買ってあげるのはとても無理だけれど……装飾を施して、ブローチにでも仕立ててみれば、そこそこ見栄えはするかも知れない。
それとも、余計な手を加えない方が媛子には相応しいかしら?
このプレゼントを受け取ったら、媛子はどんな顔をして笑うのだろう?
母なる海からの贈り物……?
しかし、そんな甘い夢は長くは続かない。
心に冷気の『棘』が突き立つ。
幼い夢想は瞬時に凍てつき、砕け散る。
ああ……。
またこんな……綿菓子のようなおとぎ話を。
千華音は、羞恥と苛立ちに任せ、右手を海に向かって振り上げる。
こんなもの、消えて無くなれ。
その時、潮騒に乗って小さな、本当に小さな声が千華音の耳に届く。
潮騒に紛れて、常人の耳にはまず届くことのない微かな声だが、千華音の鍛え上げた聴力には関係ない。
いや、たとえそれが百万人都市の雑踏の中だろうと、銃弾が飛び交う戦場だろうと絶対に聞き間違えるはずもない。
あれは、媛子の声……悲鳴だ。
次の瞬間、千華音は走り出していた。
疾く。風のように疾く。
千華音はすぐに媛子を見つけた。
数人のガラの悪そうな男たち———おそらく地元の不良。もしくは酒の入った大学生———が媛子を取り囲んでいた。
サングラスをかけたリーダー格と覚しき赤ら顔の男がスポーツで鍛えたと思しき大きな掌で媛子の二の腕を掴んでいた。
ゴツゴツと節くれ立った男の太い指。
足下に墜ちているボロボロの布きれは? 媛子の着ていた薄手のシャツのなれの果てだ。
乏しいバイト料をやりくりして———千華音が選んであげた———紫陽花色のワンピース。
媛子は顔を真っ赤にして俯いたまま、声も出せないでいる。
サングラス越しに、リーダー格の男が満足そうに眼を細めるのを感じる。
温和(おとな)しい生きた玩具をなぶる快感に酔っている眼。
下卑た野良犬の眼だ。
なにやら早口で口走っているようだが、千華音の耳には、意味を持ったものとしては届いては来ない。
誰が野良犬の吠え声に興味など持つだろう。
千華音の身体が、風のように疾った。
次の瞬間———。
サングラスが高く跳んで。
リーダー格の男の身体が宙に舞い、熱く焼けた砂に叩き付けられる。
その男も取り巻きたちも、何が起こったか判らず呆然と立ち尽くしていた。
掌中にしていた筈の小鳥の姿が、魔法のようにかき消えていたのだから。
常人である彼らには、何が起こったか想像も付かなかったろう。
頭一つは低い黒髪の少女が、一瞬にして男をなぎ倒し、紅茶色の髪の少女を助けて走り去ったのだと言うことを。
リーダー格のサングラスが砂浜に転がっている
それは粉々に踏み砕かれていた。
数十秒後、現場から百メートル先の浜辺で。
媛子の手を引いて歩く千華音の姿があった。
媛子は驚きに目を見開き千華音を見つめている。
その二の腕には男に掴まれた太い指の跡が残っている。
それが、火傷の跡であるかのように、痛々しく見えて千華音の胸が再び痛む。
外部に杜束島の秘密を知らしめる無かれ。
第三者相手に、無用な騒ぎを起こすべきではない。
そんな『御神娘』の掟さえ無ければ、リーダー格の右腕の一本もへし折って、思い知らせてやっていたところだ。
あんな野良犬どものせいで媛子が———。
違う。
悪いのは、私。
媛子を一人にしたのは、千華音なのだから。
「あの……千華音ちゃん」
媛子の絞り出すようなか細い声が耳に響いてくる。
「ごめんなさい」
応えられない。
止まれない。
振り返れない。
今……止まってしまえば、
きっと嘆き震える媛子が、千華音の胸に飛び込んでくる。
白くて柔らかくて温かくて。
甘い甘い媛子を、
今、抱き締めてしまったら。
千華音は———引き返せなくなる。
千華音は歩き続ける。
『到達点』無き白い砂の道を。
結局、二人の海はそのままお開きになってしまった。
媛子には、寄り道をする元気も、食欲もなかった。
家までの長い帰り道。
媛子は何度も何度も千華音に謝り続けた。
男の人たちに囲まれた時、闘うのはとても苦手で、好きでもなくて……。
千華音のように上手く加減できるかどうかの自信がなかった。
万が一にも、騒ぎになってしまったら。
『杜束島』にも千華音にも、とても迷惑をかけてしまう。
せっかくの『お付き合い』がこんなつまらない形で終わってしまう。
そう思うと、どうしても身体がすくんで、
どうして良いか判らなくなって。頭の中が真っ白になって……。
だらしない『御神娘』だね。
媛子は自分を笑う。
喜びの華は萎れ、笑顔の日射しを厚い雲が遮る。
慰めてあげたい。でも———。
掌に隠し持った硝子玉を千華音は握り締める。
これで媛子は笑ってくれるのだろうか?
一度は海に投げ捨てようとした漂流物で。
下らない感傷だと『棘』も笑うだろう。
でも……。
今日と言う日がこんな風に苦々しく終わってしまうのは、あまりにも……。
戸惑いと、畏れと、『棘』の囁きとが千華音の中で何度も交錯する。
それでも、別れ際に———媛子の住むアパートのある最寄り駅で———、
千華音は媛子に『硝子玉』を渡した。
「つまらないかしらね、こんなものじゃ」
柄にもなく言い訳を口にしてしまう千華音に、媛子は大きく頭を振って応える。
「そんなこと無い。嬉しい。嬉しいよ」
媛子の紫水晶の瞳が喜びにキラキラと輝いている。
生まれて初めてお祭りに連れて行って貰った子供のように。
硝子玉を胸元で握り締める。
人目もはばからずに媛子は言う。
「千華音ちゃんはステキ。
男の子なんかよりずーっとずーっと格好良くて、何倍も何倍も頼もしくて……それで……」
何度も聞かされた拙い言葉で千華音を褒めちぎる。
媛子が捧げる感謝と賛辞のシャワーを浴びながら、千華音は思う。
そんなに格好良い事なのだろうか。
『奉天魂』のその時まで、誰にも傷付けさせはしない。
己に誓った『御神娘』の義務を果たしただけの事で。
どれだけ姫君を護る騎士のように見えても、それはあくまで違うものなのだから。
その言葉は、媛子の笑顔ほど千華音の胸を大きく揺さぶりはしなかった。
しかし、次の瞬間。
「大好き」
媛子の一言が千華音の胸に音を立てて突き刺さった。
大好き。
世の中のあちこちに溢れかえった日常語。
大好き
同級生相手にも、犬猫相手にだって、いともたやすく使われる言葉が。
大好き。
たまらなく心に響く。
「本当に大好き。大好きだよ。千華音ちゃん」
千華音の胸が高鳴る。
大きく。強く。激しく。
「じゃあね。千華音ちゃん。おやすみ」
踵を返して去っていく媛子に、向かって手を振りながら千華音の胸は何処までも高鳴り続けていた。
激しい水音が響き、水飛沫がタイル張りの床を叩く。
一人、アパートに戻った千華音がシャワーを浴びているのだ。
冷水と熱い湯を交互に浴び、身体と心を引き締めていく。
汗や汚れと共に、心にこびり着いた余計なモノも洗い流してくれる貴重な時間。
本当なら———。
千華音はうっすらと眼を開く。
姿見など無くても、視線を落とせば嫌でも目に入ってくるモノがある。
千華音自身の体。
考えてみれば、ただの一度も強く意識したことのない自分の容貌と身体。
周囲の視線や、賞賛の声を知らないわけではなかったが、千華音にとって『それが?』でしかなかったことなのに。
豊かな胸、敏感な肌、濡れ羽色の黒髪、碧空(スカイブルー)の瞳。
媛子に見つめられ、懐かれ、触れ合ううちに、
いつの間にか、化粧を覚え、爪を磨き、髪の手入れを始めた。
こうすれば、きっと媛子が喜ぶだろうから。本当に嬉しそうに笑うから。
類い希な美貌を持って生まれ来たことは自分の努力の結果でも何でもない。そう思って無視してきたのに。
でも今は、天に感謝している自分がいる。
媛子が、喜んでくれるから。
たとえ自分の容姿が今より劣っていても、媛子は決して笑ったり嫌ったりはしないだろうけれど。
その時、千華音の脳裏を媛子の言葉がよぎる。
『男の子よりずーっとずーっとかっこいい』
違う。そうじゃない。
そんな褒め言葉は、出会って以来、何度も聞かされて来た。
そこに心地よい喜びはあっても、目の覚めるような驚きは無い。
『大好き』
その言葉を思い出すだけで、
痺れるような喜びが身体を駆け抜ける。
今まで、自分のことで頭がいっぱいだったけど、媛子は、千華音のことをどう想っているのか?
親友のように。
家族のように。
それとも———。
また、こんな事を。
激しい苛立ちと羞恥に、千華音の頬が真っ赤に染まる。
千華音の指先が動き、千華音の豊かな胸の、その先の膨らみに触れる。
この身体が自分を惑わせるのか?
あの男に弄ばれた時には、切り落としたいとまで思った胸。
あの子が憧れの視線を向けてくれる胸。
そうじゃない。
もっと違う何か……奥底から尽きることなく湧き出し溢れ出してくるものが……。
千華音を———。
その時、千華音の背筋を電撃にも似た、鋭い衝撃が貫いた。
闘いの中で磨かれた第六感が鳴らす警鐘は、千華音の意識から戸惑いの帷(かたびら)を打ち払う。
瞬時に思い悩む少女から、闘いの国の住人と変わる。
千華音に死角も油断もありはしない。
———招かれざる客だ。
玉のような飛沫を散らし、千華音は踵を返す。
そして———。
シャツとジーンズのラフなスタイルでベランダに出た千華音は、夜の来訪者と対峙していた。
テラスに腰掛け千華音を見下ろす人影。
杜束島を統べる一族、『九頭蛇(くとうだ)』の筆頭。
『御見留(おみと)め役』、近江和双磨だ。
緊張感の欠片もない、弛緩しきった姿で。
あるのは只野原に転がる朽ち木の洞の如き、無と空。
千華音がその気になれば、突くことも、薙ぐことも自由自在……のように見える。
しかし、こんなものは仮初めの姿だ。
この男には底がない。
涼やかに千華音を見つめる瞳の奥。
その奥の奥までのぞき込んでみても、
見えるのは広大無辺な闇の世界。
気構えも決意も必要ない。千華音など何時でも、何処でも、どうとでも出来るのだと、せせら笑っているかのように。
ひょっとして———。
千華音が気配を察したのではなく、この男がワザと存在を誇示したのかも知れない?
そう思えるほどに———。
「『御見留め役』を前に、このような姿で御意を得ますことをお許し下さい」
千華音は恭しく頭を下げる。
本来ならば———『御神娘』と言う立場でなければ———正装で出迎え無ければならない相手だ。
たとえそれが、氷柱(つらら)のような一言を千華音に突き立てて去っていった男であっても。
『君はまるで、女だ』
思い出しただけでも虫酸が走る。
肌が泡立つような感覚をありありと思い出すことが出来る。
「申し訳ないね。こんな時間に乙女の部屋に押しかけるなんて、本意では無いのだが……」
「しかし、これもまた使命……許してもらえると有り難いよ」
幼さの残る相貌に、柔和な笑みを浮かべ双磨は言う。
何て白々しい。
千華音は心の中で舌打ちする。
申し訳ないなどと欠片も思っていないくせに。千華音に対する絶対の優位性、その滋味を舌先で転がすように楽しんでいるだけのくせに。
よくも———。
もちろん、心の乱れを表に出す千華音ではない。心を鎧い、乱さぬ訓練は何度も積んできた。
御見留め役相手に尻尾を———その毛先すらも———掴ませはしない。
「オレが君に何を伝えに来たか判るかい?」
「御所崩れの件でございましょうか?」
御所崩れ。
今朝、島の某丘陵が突然崩れ『皇月家』の地所の一部と分家の土蔵二棟を呑み込んだのだ。
特に大騒ぎになったわけではないが、『皇月家』では色々な事が話し合われたようだ。
この事故の原因は何なのか?
只の偶然なのか? そうではないのか?
いや、『十六歳』の誕生日はまだ先のこと。
よもや『大蛇神』様の怒りと言うこともあるまいが。
もちろん千華音は真っ先に『九蛇卵』からの知らせを受けている。
誰かに疑われ、責められたわけではないが、千華音はそれでも思ってしまう。
もしかして———。
これは、自分のせいなのだろうか? と。
二人の『御神娘』が、『大蛇神』様のものである私たちが、『お付き合い』などしているから。
まさか———。
自分が杜束島の掟に背いている……と千華音は思わない。
しかし、心の何処かで感じてもいるのだ。
決して、一点の曇りもなく正しいわけではないと。
戸惑いと羞恥と後ろめたさが、春の霧のように心を陰らせてしまう。
これもまた、媛子との海を素直に楽しめなかった理由の一つではあったのだ。
双磨が笑いながら頭を振る。
「そんな話じゃない」
でしょうね……と心の中で千華音は応える。
双磨が千華音の下を訪れる理由など一つしかない事を、千華音は充分に承知している。
だからといって、双磨に正直に応えてやる義理はない。それだけのことだ。
「君はまだ思い違いをしているんじゃないかなと思ってね」
来たな。と千華音は心を固く鎧って行く。
固く。固く。何処までも固く。
矜持(きょうじ)と怒りで造り上げた難攻不落の氷壁が千華音を取り囲んでいく。
大丈夫、これで。
「君は自分の気持ちを『恋』とか思ってたりしているのかな?」
「恋?」
「しかも特別だ。この世にただ一つしかない許されざる『恋』だ……決して口吻(くちづけ)ることの許されない禁断の果実……だからこそ全てを捧げる価値がある……と」
双磨の艶やかな前髪が夜風に揺れる。
「だとすれば、本当に笑えるなぁ」
「……」
「そんなもの、時代がかった安物の……ええと何といったかな……そうだ『エス』ごっこだ」
双磨は詠うように語る。
「要するにままごとだよ。ままごと。
ままごとだから綺麗で、
ままごとだから楽しいんだ。
触れられないから貴く、綺麗に思える。
でもそれはただの偽物だよ。
人工甘味料を塗りたくった安手の茶番劇。
好きと楽しいと嬉しいだけを、手を変え品を変えてせっせと積み上げていく角砂糖のお城だ……だからね」
双磨はスッと眼を細める。
「そこにリアルは無い。だから価値など生まれない。生まれようが無いんだよ」
「……」
「たとえるならシャボン玉だ。触れたとたんにいとも容易くパンと弾ける。で、おしまい。天にも昇れない。地にも還らない。
ただの零だ。たとえ、何千何万飛ばし続けたってね」
何処までも双磨は詠い続ける。
「聡明な君が気付かない筈は無いと思うけど……もう一度言わせてもらうよ」
「……」
「オレは島の長老たちのように、煩いことを言うつもりはない。
美味しいふりも結構。
着飾るふりも結構。
騎士を気取るのも結構。
世界にひとつだけの、特別な私。
私たちかな?
まあ、どっちでも良いけどね。
大いに酔い、楽しめば良い。
でもね、誰だっていつかは現実という家に帰るんだ。
交わり、産み、育む。人としての当たり前が待つ家にね。
ままごとはそのための予行演習だ。
いつか思い出の片隅に片付けてしまうためだけに必要なんだから」
双磨の言葉のひとつひとつが飛び交う無数の乱刃となって千華音の心を責め苛む。
それは『棘』の教えと同じモノだ。
連日連夜、繰り返し降り注ぐ正論の針だ。
その上、嘲笑と言う名の毒までべっとりと擦り付けている。
「それとも、『日之宮家の御神娘』相手に色仕掛けの技でも試しているのか? 婚前のアバンチュールって奴かな?
確かにオレと『九那登』を済ませたら、もうできないしなぁ」
双磨の言葉が雨のように千華音に降り注ぐ。
しかし、その心にも、表情にも……砂粒の欠片ほどの乱れさえ起きない。
言葉が心に刺さるのは、
内なる『棘』の言葉だから、
逃げも隠れも出来ない自分自身の言葉だから、千華音の剥き出しの心に刺さるのだ。
第三者の口にする手慰みとは、同じ言葉でも意味と重みが違う。
痛みがないわけではない。
怒りが沸いて来ないわけでもない。
それでも———。
こんな男に踊らされ、嘲笑われるほど、皇月千華音は安くはないのだ。
千華音は深々と頭を下げる。
一分の隙もない完璧な礼だ。
「ご忠告、痛み入ります」
双磨の眉が動く。
その表情を過(よ)ぎったのは、当てが外れた不快感の影。
千華音の眼には———願望かも知れないが———そう見えた。
「判ってくれればいいさ」
双磨の指先が小さく動いている。
掌の中で何かを弄んでいるようだ。
あれは何なのだろう?
千華音がそう思った時。
月の光が、双磨の指先に摘まれたそれを照らし出す。
あれは、深緑色の硝子玉だ。
「!?」
千華音の鼓動が大きく高鳴る。
あれは、媛子にプレゼントしたモノなのか?
媛子は双磨に会ったのか?
何を話したのか?
何故、『硝子玉』を双磨が持っている?
まさか———。
氷壁に亀裂が入り、煮えたぎった激情が溢れ出してくるのが判る。
千華音の心に、あの時の胸を弄ばれた時の何倍もの怒りが沸々とこみ上げてくる。
『九頭蛇』の地位も、技量の差も関係ない。
『御神娘』の定めも、島の掟も、何処かに消し飛んでしまった。
何故、今、太刀を持っていないのか?
今すぐに、この泥溝(どぶ)に浮かんだ影のように忌々しく、どす黒い男を。
真っ二つに。
轟々と荒れ狂う衝動のままに。
双磨は薄く笑う。
存分に『皇月千華音』で楽しんだとでも言わんばかりに。
「では、ごきげんよう」
次の瞬間、双磨の姿がスッと宙に舞い、
そして闇の中に消えていった。
立ち尽くす千華音の傍らを、夜の風が走りぬける。
まだ温かいはずの葉月の風は、絶対零度の刃となって、千華音の心を切り裂いていく。
空の月を黒い雨雲が覆い隠し始めていた。
そして。
夜の都会を、太刀を手にした千華音が走る。
放たれた鏑矢のように。
燎原(りょうげん)を焼く炎のように。
吹き荒れる旋風のように。
天を駆ける龍のように。
日之宮媛子の下に。
千華音の心が雄叫びをあげる。
許せない。
何が? 許せない?
嘲笑う双磨が?
かき乱す媛子が?
恋を踏みにじられたことが?
『御神娘』の『運命』が?
それとも、振り回され続ける愚かな自分自身か?
判らない。
判るわけがない。
どれでもあり、どれでもない。
それでも———。
雨粒が千華音の頬を叩く。
雨が激しく降り始めたのだ。
都市特有のゲリラ豪雨も、火照った千華音の身体と心を鎮めてはくれない。
ただ一つの、激しく燃えさかる激情に追い立てられるかのように、千華音は疾った。
気がつくと千華音は媛子の部屋の扉の前に立っていた。
雨音が激しく安普請の屋根を叩いている。
このちゃちなスチールの扉の向こうに。
媛子がいる。
熱く火照った身体とは対照的に、その心の何処かが驚くほどにシンと冷え切っている。
『棘』のようではあるが、決して『棘』ではない。
問いかけては来ない。責め立てても来ない。
そこには、『正義』も『正論』もない。
ただ、恐ろしいまでに静まりかえっている。
命を育まぬ不毛の星———月のように。
その部分が問いかけてくる?
千華音は何をするつもりなのか?
問い糾(ただ)すのか?
問い詰めるのか?
打ち壊すのか?
切り裂くのか?
ここまで来ても、『到達点』は見えない。
ただ、一つだけ変わらないモノがある。
今、ここでこうしている自分が許せない。
どうしようもなく、絶対に許せない。
その気持ちだけが音もなく、しかし激しく渦巻いていた 。
千華音の手がドアノブに伸びる。
その時———。
何物かの気配を感じ、千華音は振り返る。
そこには、蛍光灯の輝きの下には……。
日之宮媛子が立っていた。
『御霊鎮め』の日。
二人の十六歳の誕生日まで、あと34日。