(零)

雨と風と夜の舞台で、

少女と少女が対峙していた。

少女の紅茶色の髪はぐしょぐしょに濡れ、

服はしどけなく乱れている。

履いていたサンダルは片一方しか残っておらず、靴下は泥水で黒く汚れている。

紫水晶色の大きな瞳一杯に、涙を溜めて。

あまりに痛々しく、無惨な姿で。

遠雷が轟く。

それは迫り来る嵐の予兆。

ひとたび閃光が閃けば、引き裂き、猛り狂い、なぎ倒すだろう。

黒髪の少女の気持ちに呼応するかのように。

言葉か。

刃か。

黒髪の少女の自身にすら正体のわからない、ただ激しく煮えたぎっている熱い何か。

しかし、目の前の少女の姿は、その滾(たぎ)りを上回る熱を、黒髪の少女にもたらした。

何があった?

まさか……。

あの男が?

どす黒い影のような男が?

聖なる『御神娘』をこんな目に?

黒髪の少女の顔から音を立てて血の気が引いていく。

もしそうであるなら。

その手がゆっくりと太刀の束へと伸びていく。

許さない。

溢れる何かを叩き付けようとしたその時。

紅茶色の髪の少女が震える唇を開く。

「なくしちゃった」

「!?」

無くした?

何を!?

まさか?

まさか!?

黒髪の少女の顔色が変わる。

ぐつぐつと煮えたぎる胸の内を、凍てついた豪槍―――『棘』のそれを遙かに上回るそれ―――が貫く。

次の瞬間―――。

「宝物、なくしちゃった」

紅茶色の髪の少女の目から、堰を切ったように涙が溢れ出す。

「せっかく……せっかく」

わあわあと声を上げて泣き出す。

恥も外聞もなく、ただの幼子のように。

黒髪の少女が驚きに目を見開く。

言い訳も、泣き落としも心の何処かで予想して、供えていた。

それでも、ここまで手放しで、無防備に、泣きわめく姿は想像もしていなかった。

まさに隙を突かれたのだ。

しかし、少女もまた『御神娘』の一人なのだ。

そんな隙はほんの一瞬のこと。

その心は瞬く間に冷徹非常な『御神娘』に切り替わる……筈だった。

しかし、次の瞬間、紅茶色の髪の少女は黒髪の少女の胸に飛び込んでいた。

「ごめんね。ごめんね。ごめんね」

黒髪の少女は動けない。

紅茶色の髪の少女の後れ毛と白いうなじが。

濡れたシャツ越しに伝わってくる肌の熱さが。

黒髪の少女を捕らえて放さないのだ。

動くに動けない黒髪の少女の頬を吹き込む雨粒が叩く。

遠雷は鳴りやまず、雨は尚も激しく降りそそいでいる。

(壱)

初めて上がった媛子の部屋で、千華音が所在なさげに座っている。

泣き出した媛子を優しく慰めながら、どうにか部屋に上げたはいいが、そのまま放りだして帰る訳には行かなくなってしまったのだ。

あの滾る思いは嘘のようにかき消えてしまっている。

その鼻孔を擽(くすぐ)る仄かな残り香のせいだろうか?

テーブルの片隅に置かれた小さなアロマキャンドルから発せられているものだ

ハーブや天然樹脂などの植物から採られた精油(エッセンシャルオイル)を使った治療法、アロマテラピーだ。

その効能は、よく知られた精神をリラックスさせるものから、抗菌作用や炎症を抑えたりするものまで、さまざまだ。

以前、媛子に教わった通り、見よう見まねで千華音が用意したものだ。

半分自己流だけど、色々と試しているんだよ……と媛子は言っていた。

そのせい……なのだろうか?

媛子はシャワーを浴びている。

僅か二メートルほどの距離で。

薄いアクリル製の扉の向こうには。

媛子が。

そう思うだけで

千華音の鼓動が激しく高鳴る。

胸が詰まる……息苦しいほどに。

熱くて、苦しくて、重々しくて、なのに心の何処かがふわふわと舞っている。

何なのだ? この不可思議な感情は?

まとわりついてくる得体の知れないものに抗うかのごとく、千華音は媛子の部屋を見回してみる。

小さな机と衣裳棚と一通りの家電製品。

平凡な品を飾り立てるかのように、パステルカラー調の女の子らしい小物で溢れている。

棚の一つにはアロマキャンドルや香料の納められた小瓶たち。

机の横には小さなマジックボード。

『金曜日は千華音ちゃんと♡』

の可愛らしい丸文字が躍っている。

冷蔵庫に貼り付けてられたメモ。

『千華音ちゃんの好きな紅茶』

いつか教えてあげたレシピだ。

まるまるとした硝子瓶の小物入れ。

中には、綺麗にラッピングされたクッキーが手付かずのまま置いてある。

確か、あれは―――。

千華音と媛子が二人で焼いたクッキーだ。

「もったいなくて、食べられないよ」

媛子はそう言って胸に抱いたけど。

まさか―――本当に。

千華音の胸にふうわりと温かいものが広がっていく。

何もかも女の子らしい色とりどりの輝きに満ちている。

無味乾燥な千華音の部屋とは大違いだ。

何だか申し訳ないようにさえ思えてくる。

千華音には『皇月家』の『御神娘』以外の色は無い。

媛子との『お付き合い』の中で、媛子の非保護者的なキャラクターに千華音が合わせているうちに、図書館に通ったり、第三者を観察したりして自然に身に付いたものだ。

どんな事でも器用にこなす、大人びた女の子。しかし、その才能と努力を振りかざして誇ったりはしない。

あくまで自然に、相手が自覚するより速く、

気持ちを酌み取って、凛々しく護り、優しく導いてあげる。

そんな千華音に、媛子もくるくると色を変えて応える。

それは本当に楽しい、心躍る時間だった。

でも、千華音は知っている。

それは本当の千華音でもなんでもない。

千華音は誰かの友達でもない。

千華音は誰かの家族でもない。

本当の千華音は、『皇月家の御神娘』だ

皇月家は千華音にとっての修業場だ。

当主は道場主で、九蛇卵たちは門弟。

子守歌替わりに聞かされたのは『御神娘』としての心得。

繰り返されるのは鍛錬と訓練。

息をするように、歩くように、ただひたすらに。

悩みを打ち明けてくれた人も、涙を拭ってくれた人も、いなかった。

そのことを、寂しいとも辛いとも思ったことはなかった。只の一度も。

でも、本当にそうなのだろうか?

ただ判らなかっただけなのかも知れない。

繰り返すだけの日々の空しさ。

完璧に定められた未来への閉塞感。

それを感じていたから、変化と解放を本当は望んでいた。

だから万華鏡や海に強く惹かれたのだろうか?

違う。

千華音は想いを振り払うように頭を振る。

そうじゃない。寂しさや空しさを埋めるためにここでこうしている訳じゃない。

そんな代用品などではない。

違う筈だ。

今の千華音は……。

【本当に馬鹿ね。あなたは】

『棘』が冷気の切差を突き立てる。

【今とか昔とか……なんの関係もないわ】

【日之宮媛子もあなたと一緒、何者でもない。

ただの敵よ。

嘘や騙しも手練手管だって使ってくる。

そうでしょう?】

……判ってる。隙なんか見せてない。騙されてなんか無い。

そう返しつつも千華音は感じていた。

『棘』への反駁には、強い『芯』が欠けている……と。

【そんなことは無い、なんて言わないだけまだ理性もプライドも残ってるようね】

【ヒントをあげる。

あなたは見ないふりしてるのでしょうけれど……机の上よ。ほら】

『棘』の囁くままに、視線を動かす千華音。

そこには革張りの小さな手帳が乗っていた。

千華音は息を呑む。

これは……。

媛子の日記……?。

千華音の知らない媛子があの中には……。

強い衝動が千華音の胸を揺さぶる。

しかし、千華音は激しく頭を振る。

でも、黙って見るなんて。そんな。

盗人のような真似なんて。

『棘』は尚もせせら笑う。

【情報収集は立派な戦術の一つでしょう?】

煩い!!

【それに杞憂だったらそれこそ万々歳よ。そうではなくて?】

『棘』の正論はあまりに固く鋭い。

『お付き合い』の感情論など、まるで歯が立たない

【さあ、見なさい】

駄目!

【さあ】

嫌よ!!

葛藤する千華音

激しくせめぎ合う葛藤の嵐の中、千華音の手が手帳へと伸びていく。

まるで別の意志を持った生き物のように。

いけない!!

その時、媛子の可愛らしい声が響く。

「あ」

常人ならばシャワーに紛れ、聞き取れないほどの声。

しかし、その一言が千華音の手を押しとどめる。

良かった。

安堵の思いを込め、千華音は呼びかける。

「どうしたの、媛子」

「あ……あの……ええと」

扉越しに媛子の恥ずかしそうな声が聞こえてくる。

「なあに?」

「バスタオル忘れちゃった……」

「……タオル?」

「ごめんね、取ってくれるかなあ?」

千華音が振り返れば、そこには扉の隙間から伸びた白い手がヒラヒラと振られている。

千華音は慌てて立ち上がる。

タオルを求めてタンスへと急ぐ。

「何処?」

「ええとね、二段目」

慌てて開けた引き出しの中には、下着やシャツがぎっしり詰まっていたのだ。

「……」

思わず千華音の手が止まる。

「どうしたの? 千華音ちゃん」

「……媛子」

「あ、ごめんね。三段目だった」

今度こそバスタオルを手にし、千華音は浴室の前に向かう。

湯気のベールの向こうに……媛子が……。

鼓動が鳴っている。早鐘のように。

「お待たせ」

扉の隙間を覗かないように注意しながら、手を伸ばす。

「ありがとう、千華音ちゃん」

タオルを求めて彷徨う掌が千華音の二の腕を掴む。

「きゃあ!」

思わず引っこめてしまった千華音の手からバスタオルがはらりと滑り落ちる。

「ごめんなさい」

「あ、ごめんね」

二つの声が同時に部屋に響く。

聞き慣れたと言葉と、初めて耳にする言葉。

慌てて腕を放し、タオルを拾い上げると、媛子の腕は浴室の湯気の中に帰っていった。

再び扉は閉じられた。

千華音は力なく壁に背を預けてしまう。

信じられない。

私が、皇月千華音が。

あんなか細くて情けない悲鳴をあげるなんて。

『お付き合い』の作法には絶対にありえない。

情けない。恥ずかしい。

頬が熱い。

見られてしまったろうか?

その瞬間の顔を……。

そう思うとなお頬が熱くなっていく。

静まれ。鎮まれ。

こんな姿は見せられない。絶対に。

そんな想いとは裏腹に、千華音の指先は媛子に掴まれた二の腕に触れる。

熱い。

火照る頬よりもなお、熱かった。

十分後。

浴槽の扉が開き、バスタオル一枚の媛子が

姿を現す。

ちゃぶ台で雑誌を広げていた千華音が振り向く。

温かい眼差しと、優雅な物腰。

大人な雰囲気だなぁ……と媛子が何度も褒めちぎる千華音だ。

「落ち着いた?」

「うん」

媛子は微笑む。

心なしか眼はまだ少し赤いように見えるけれど、これなら大丈夫なようだ。

「取り乱しちゃって……ごめんね」

「いいのよ」

机の上には冷えたアイスティ。

これもまた千華音が用意したものだ。

心地よい『お付き合い』の作法。

あとは綺麗に、すっきりとお別れするだけだ。

雨が強ければ傘でも借りて……。

そんなことを考える千華音に、媛子は

「今度は千華音ちゃんが入って」

「え?」

「でも、千華音ちゃんだって雨で濡れちゃったし……狭いけど」

確かにそうだ。媛子のことで頭がいっぱいで、完全に忘れていた。

「私はいいの、このくらい平気よ」

「……うん……そうだよね……でも」

「……」

「……でも」

媛子が、子リスのように千華音を見上げる。

千華音は知っている。

この目に抗えたことは一度もないことを。

(弐)

鼓動が鳴る。

熱く、強く、高く。

いくらシャワーの音を強くしても、耳にまとわりついて離れない。

これで何度目のシャワーだろう……と千華音は思う。

これはチャンスなんだから。

一人になって、落ち着いて、火照った身体と心を鎮めて……そして。

たっぷりの冷水と熱い湯を交互に浴び続けても、心はざわめき続ける。

浴槽に立ちこめているこの薫り……。

湯上がりの媛子の髪の香も同じだった。

シャンプー&リンス。

ボディソープ。

どれもありふれた市販品だ。

ひょっとしたら試供品かも知れない。

なのに―――。

どうして?

同じ湯船に浸かっている訳でもないのに。

千々に乱れる想いそのままに。

鼓動はただ鳴り響き続ける。

ひょっとしたら心臓の音を媛子に気付かれはしないだろうか?

そんな馬鹿げた考えが頭を過ぎる。

嗚呼。

なんて情けないんだ。

こんなことだからあの男に……。

黒い影の囁きが脳裏を過ぎる。

「君はまるで女だ」

―――煩い。

「君は自分の気持ちを、『恋』などと思ってやしないよね?」

―――煩い!

「そんなもの時代がかった安物の『エス』ごっこだ」

―――煩い!!

「シャボン玉だ。触れたとたんに、いとも容易くパンと弾ける。で、おしまい。天にも昇れない。地にも還らない。ただの無だ。たとえ、何千何万飛ばし続けたってね」

黙れ!!

あの時は効かなかった筈の言葉が、戯れだったはずの言葉が、今は―――。

春の野山に湧き出す虻のように。

肌に貼り付いて離れない蜘蛛の巣のように。

冬の日のささくれのように。

絡み付き、引き倒し、爪を立てる。

疵口に注ぎ込まれるのは『棘』の寒気と、『影』の毒気。

嘲笑う声が聞こえる。

『影』がせせら笑う千華音を『棘』が嘲笑っているのだ。

【効くでしょう?】

【これはママゴトではないから。

確かにそこにある現実―――】

【あなたの中から湧き出して来る】

違う!!

私は!!

違う! 違う! 違う!

肯定したいのか!?

否定したいのか!?

何を?

混乱と苦悩が千華音を翻弄する。

千華音の心に乾いた音を立てて亀裂が入っていく。

細い亀裂の隙間から、ジクジクと何かがにじみ出そうとしている。

溢れ出した一滴は、たちまち噴き出す奔流となり、激流の大河となり、逆巻く波濤となって千華音を呑み込み、押し流すだろう。

そんな確かな予感がする。

突然、ほとほととドアを叩く音が響く。

「千華音ちゃん」

「!」

媛子の声が聞こえる。

「あのね、シャンプーとか足りるかなぁ」

たったそれだけのことが、千華音を懊悩の迷宮から、現実の浴室へと引き戻していく。

「ありがとう。でも大丈夫よ。媛子」

静かな、落ち着いた声。

自分でも、不思議に思うほどに。

千華音は―――。

鼻孔を、胸を、全身を満たしていくのは、月並みなシャンプー&リンスとボディソープの―――日ノ宮媛子の薫り。

(三)

そして―――。

千華音は媛子と映画のDVDを見ている。

映画のお供はスイーツと紅茶。

映画の内容はいかにも媛子の好きそうな、

コミック原作のアイドル映画だ。

夢中で見入っている媛子の傍らで、千華音の心は揺れ続けていた。

その映画のストーリーは、

夢を求めて上京し、同居することになった二人の女の子が、次第に惹かれあっていくものだったのだ。

響く。

いつもなら軽く聞き流す筈の台詞が、さして工夫のない画面が、アイドル女優の凡庸な芝居が。

千華音の胸の奥に潜むものを絶え間なく揺さぶり続けるのだ。

千華音の中の『棘』が食い込んでいく。

こんな低級な作り物。

チープな恋愛劇。

大げさな音楽に乗って大声で愛を叫ぶありがちなクライマックス。

なんて下らない。

そうやって何度打ち消しても。

寝物語をしながら絡み合う彼女と彼女の指先に。

彼女を背中から抱き締める彼女の姿に。

去っていった彼女に届くと信じて歌い続ける彼女の姿に。

どうしても、千華音は重ね合わせてしまうのだ。

千華音と媛子の姿を。

そして―――。

クライマックスにかかる曲。

そのサビのフレーズ。

『それはきっと夜の魔法』

『許して求め合える密やかな饗宴』

千華音の心に響いたのは、その言葉だった。

画面に『Fin』のエンドタイトルが浮かぶ。

「千華音ちゃん。どうだった?」

二人で映画を見るたびに、媛子は千華音にそう訪ねてくる。

喜びを分かち合ったことを、しっかりと確かめるかのように。

「とても素敵だったわ」

千華音は答える。

いつもの『お付き合い』のお愛想とは違う、幾ばくかの本心を込めて。

「ホントに?」

そう言って媛子は無邪気に笑う。

「ええ、本当に」

甘酸っぱい心地よさを反芻するように、千華音も答える。

たった今、観賞したばかりの映画のように。

モニターの画面がテレビの映像に切り替わる。

深夜のニュース映像だ。

千華音の理性を呼び覚ます。

「そろそろ、失礼するわね」

千華音が席を立つ。

去るにはいい頃合いだ。

今はすみやかにこの場を離れて、頭と心を冷やすべきだから。

ここは『日ノ宮媛子』の部屋―――敵陣なのだ。

距離を取って、時を稼いで、混乱を鎮める。

それが、闘いに勝つ鉄則。

「今日は楽しかったわ。ありがとう」

媛子が、千華音を見上げる。

紫水晶色の輝きが訴えている。

縋り付く、幼子のような無垢さで、

「今夜は泊まっていってくれないの?」

と……。

千の言葉より、万の祈りより、なお強く訴えかけてくる。

「そうかぁ……そうだよね。千華音ちゃんだって……忙しいんだもんね」

「……」

「そうだよね。ダメだよね」

胸に抱いたクッションをギュッと抱き締め、媛子は小さく肩を落とす。

「……ごめんね」

それだけで、たったそれだけのことで千華音の脚は止まってしまう。

明日は学校があるから。

早朝のバイトがあるの。

少し疲れてるから。

理由など幾つでも思いつくのに。

千華音は―――。

(五)

「ごめんね。私のじゃあ、あわないよね」

媛子はそう言って申し訳なさそうに肩をすくめる。

確かに媛子の言う通りだ。

そのままの服で寝たら皺になっちゃって困るよねと。

媛子が貸してくれたパジャマではあるけれど、千華音が着るにはあまりにも無理がありすぎる。

色が媛子の好きなパステルピンクなのはまだしも、そもそも媛子と千華音は背の高さも違う。

手足も、ヒップも、そして何より胸が、今にもボタンが弾けそうになるほどに苦しい。

媛子がよく褒めてくれる大きな胸が、こんな時は本当に煩わしく思えてしまう。

余っているのは、ウエストくらいのものだ。

それでも―――やっぱり迷惑だから帰ると言い出すことも出来る筈なのに―――千華音は、気にしないで、このくらいのこと……と微笑んでしまう。

「千華音ちゃんは私のお布団を使ってね」

「……え?」

「千華音ちゃんはお客様だもの」

パジャマの媛子

媛子は胸に抱いていた枕を千華音に渡し、

タオルとクッションとソファーであしらえた即席ベットに潜り込む。

媛子から渡された枕を手に、千華音は立ち尽くすしかない。

何もかも媛子のなすがままだ。

まるで、自分が幼子にでもなってしまったように頼りなく思える。

「おやすみなさい。千華音ちゃん」

媛子の声と共に、部屋の電気が消え、沈黙の夜が千華音を包み込んだ。

「おやすみなさい。媛子」

(六)

静寂の闇の中、千華音の五感はさえ渡っていた。

窓を叩く風の音。

目覚まし時計の秒針の響き。

媛子が起こす衣擦れの音。

「ん……」

寝息混じりの意味のない呟き。

音と気配と媛子が絶え間なく千華音に押し寄せてくる。

千華音はただ眼を閉じているだけで、

とても眠るどころではない。

まるで大海に翻弄される木の葉も同じ。

正しき航路を指し示すべき灯火は、波間に消え、霞んでいくばかりだ。

媛子の蒲団。

媛子のパジャマ。

あれだけ激しいと思ったお風呂を遙かに凌ぐ密度で、千華音を包み込み、放さないのだ。

違うわ……。

小さくなっていく熾火(おきび)を懸命に掻き立てるように『皇月千華音』をかき集めながら、千華音は念じ続ける。

こんなにも胸の奥が熱いのは。

こんなにも息苦しいのは、

こんなにも胸が締め付けられるのは。

媛子の小さなパジャマのせいで―――。

千華音の頬がまた熱を帯びてくる。

なんて不様なのかしら。

小さくて、いじましくて、惨めで―――。

『棘』も、『影』も、もう千華音に応えてはくれない。

何処に消えてしまったのだろう。

一人きりであることをひしひしと感じる。

こんなにも心細いなんて。

キュッと毛布の端を掴み、引き寄せてみる。

温もりと、残り香と、幻惑の二重奏だ。

まるで―――。

媛子に直に抱き締められてるかのような。

そんな―――。

「媛子……」

ほろりと口から声が漏れる。

言うはずのない、言ってはならない名前を。

「!?」

聞かれた?

我に返った千華音が五感を総動員して欹てる。

まず確認、対応はそれからだ。

「起きてる?」

もし起きているなら、あの映画のワンシーンのように寝物語をするのもいい。

きっと媛子も喜んでくれるだろうから。

寝起きが良かったら……だけれど。

『お付き合い』の作法を思い出し、張りつめていた心がほんの少し、軽くなる。

媛子の返事はない。

反応もない。

本当に眠っているみたいね。

私は、何をしているんだろう。

千華音がふと自嘲の笑みを浮かべようとしたその時、

その時、媛子がむっくりと起きあがる。

千華音の全身に再び緊張が走る。

全神経が『皇月の御神娘』へと切り替わる。

媛子は頼りなげな足取りで千華音の下へと歩み寄ってくる。

少し寝惚けているみたいだ。

そして……。

……そのまま、通り過ぎていく。

「?」

どうやらただのトイレだったようだ。

この状態でも、しっかりと反応できた千華音の中の『御神娘』を讃えるべきなのか?

それとも過剰反応を笑うべきなのか? 

ただ意識しすぎているんだ。情けない。

しばしの時が流れて。

媛子がトイレから出てくる。

媛子と千華音の距離は五歩……四歩……三歩……。

今、千華音と並んだ。

媛子がしゃがみ込む気配がする。

え?

次の瞬間―――。

掛け蒲団がめくれ上がり、媛子がするりと中に潜り込んだ。

「!?」

鼓動が激しく高鳴り、全身が熱く燃え上がる。

媛子が千華音の隣に。

ありえない。こんな。

夜の闇に包まれているからこそ。

背中合わせだからこそ。

寝息と、衣擦れの音と、触れ合う肌と、噎(む)せ返りそうになるほどの薫りと。

何もかもがはっきりと感じ取れる。

日ノ宮媛子。

千華音の脳裏でキラキラの思い出達が弾けていく。

『それでいいよ。あなたは私を殺していい』

『千華音ちゃんは優しいから』

『千華音ちゃんはステキ。男の子なんかよりずーっとずーっと格好良くて、何倍も何倍も頼もしくて……』

『もったいなくて、食べられないよ』

二人で紡ぎ続けてきた、言葉たちが舞い踊る。

絆創膏だらけの指先。

映画館で重ねた掌の温もり。

波打ち際で弾ける白い手足。

日の光を浴びて翻る紅茶色の髪。

涙を一杯に溜めた紫水晶色の瞳。

媛子。

『私の一番大切な人になって下さい』

媛子を―――。

『大好きだよ』

駄目!!

消し飛びかけている理性を総動員し、千華音は千華音に命じる。

動け。

動け。

動いて。

駄目よ。

ここにいては駄目。

媛子に溺れては駄目。

抗え、あらん限りの力で。

五感を封じ、心を閉じ、積み重ねてきた十五年と、『御神娘』に全てを託す。

内宇宙の深淵で―――。

千華音と千華音が激しくせめぎ合う。

滾り、逆巻き、うねり、沸き立ち、絡まり、締め上げていく。

創世神話じみたスペクタクルが広がる。

飛び交う飛沫と火花と電光の一つ一つが、

打ち払うべき贖罪の欠片なのだ。

苦悶と、困惑と、焦燥と、憤怒と、畏れと、嫌悪と、酩酊感と、……

たまらない心地よさと―――。

千華音は、全身全霊の力を込めて、指を、腕を、脚を、動かしていく。

刻み込むように、穿つように、前へ。ただ前へ。

十五年の生涯の中で最も長い、無限にも等しい、十秒間が過ぎていく。

そして―――。

(七)

千華音はベランダに立っていた。

あんなに強く降っていた雨はいつの間にか上がっていて、煌々と輝く月が夜空に顔を出している。

月。

冴え冴えと輝くもの。

千華音の友であり、師であり、千華音自身を映す聖なる鏡でもあるもの。

そこに映る千華音の姿は、不可思議に揺らいでいる。

息は大きく乱れ、鼓動は未だに高鳴り続けている。

全身が綿か何かになってしまったかのようで、今にも力なく座り込んでしまいそうだ。

それでも―――。

こうして、煌々と冴え渡る輝きを浴びていると、千華音の中にもう一度、何かが満たされていくのが判る。

戻って来ているのだ。

ぞっとするほどに真っ青な月。

月狂(ルナティック)。

月に関する数ある伝承の一つで、月の光が人を狂わせ、殺意を駆り立てると言われている。

初めてその言葉を知った時、不愉快に思ったものだ。

神聖な月が穢されたような気がしたのだ。

でも今は、それが今の千華音に相応しいもののように思えてくる。

そう……。

私は、おかしくなっているのだ。

迷い、戸惑い、逃げ回っているのだ。

だから―――。

心がみるみる凍てついていくのが判る。

心の凍土を荒れ狂う氷嵐。

狂おしいほどの痛みとなって千華音を容赦なく責め苛む。

揺らぎの苦しみは収まってはいない。ただ増していくばかりだ……。

氷嵐に乗って声が聞こえてくる。

千華音にささやきかける『棘』の声だ。

【あなたは何物なの?】

【あなたは何処から来て、何処へ行くの?】

縺(もつ)れて解(ほぐ)れた迷い道を、澄みきった月の輝きが照らし出す。

嗚呼、そうだ。

そうだったんだ。

道に迷ったときは、判っているところまで戻るものだと。

今までは、戻れなかった。

必ず何処かで立ち止まっていた。

初めての痛みに、血を流すことに怯えていたのだ。

迷って当然だったのだ。

でも、今この時ならば、

「今の君はまるで女だ」

現れた『影』が嗤う。

千華音は凛と応える。

違う。

私は、『皇月千華音』。

『大蛇神』に選ばれた聖なる神具、『御神娘』。

「しかも特別だ。この世にただ一つしかない許されざる『恋』だ……決して接吻(くちづけ)ることは許されない、だからこそ全てを捧げるに値する禁断の果実なのだと」

『影』は尚も嗤う。

違う

それは、私の特別ではない。

血も肉も技も智も貞も勇も。

『御霊鎮めの儀』の『奉天魂』に捧げ奉る。

その為だけに生き、その為だけに逝く。

『杜束島』千年の栄えのために。

「そこに現実はない。だから価値など生まれない。生まれようが無いんだ」

そう『影』は詠う。

そうよ。

だから見せてあげる。

私の現実を。

千華音の中で、何かが音を立てて断ち切られる。

肌が裂かれ、血が溢れ出す。

荒れ狂う龍の如く、魂を締め上げ、食い破っていく。

この痛みが正しい。

千華音は思い返していた。

『皇月家』のものから何度も何度も繰り返し聞かされた言葉。

封じられた祟り神が目覚める時、その怒りは山を揺るがし、海を割り、杜束島を滅ぼす……と。

脳裏にくっきりと刻み込まれた滅び日のイメージ。

火を噴く美和山。

迫り来る大津波。

真っ二つに引き裂かれた大地が街を呑み込む。

吹き荒れる嵐が森を薙ぎ払い。

悲鳴と、涙の中、島の生きとし生けるもの全ての命が消え失せていく。

胸が激しく疼く。

この胸の痛みこそが現実なのだ。

棘が低く静かに囁く。

【思い出した?

あなたは誰なのか?】

千華音は天を仰ぐ。

瞳に映るの凛と青ざめた月。

「私は皇月千華音。『大蛇神』の『御神娘』」

今、心は決まった。

(八)

音もなく扉が開き、千華音が媛子の部屋へと戻ってくる。

その瞳に映るのは、幼子のように無防備な姿で、寝息を立てている媛子の姿。

日之宮媛子。

もう一人の『御神娘』。

皇月千華音と殺し合う敵。

千華音は胸の中でもう一度、呟く。

殺し合う敵。

変えようのない絶対不変の運命。

億万年の時を超えてそびえ立つ巌の如き、ただ一つの確かなもの。

その響きが、千華音の心を凍てつかせていく。

千華音は音もなく媛子の下へと歩を進め始める。

気配を消し、殺気を消し、千華音の全てを掻き消して。

一歩。また一歩。

これでいい……と千華音は思う。

私は月だ。

高揚感とも達成感とも無縁な凍てついた夜の使者なのだから。

千華音が媛子の枕元に立つ。

引き抜いた太刀が恐ろしいほど冴え冴えと輝く。

眠る媛子ののど元に太刀の刃を向ける。

完全に無防備な寝顔。

呼吸に合わせて薄い胸が微かに上下している。

あとほんの少し、切っ先に力を込めれば、全部終わる。

二度と囀らない。

二度とすり寄っては来ない。

二度と微笑みかけることはない。

大蛇神に捧げる聖なる供物となるのだ。

百も承知で千華音はそれを為すのだ。

痛みも、苦しみもない。

この甘い眠りの中で、美しく静かに終わらせる。

それが一番いい。

もう『棘』も、『影』も、千華音にささやきかけては来ない。

当然だ。

もう、その必要は無いのだから。

心はただ一面の鏡の如く何処までも清らに煌めいている。

もう、ままごとはおしまい。

そして私は、家に―――本当の皇月千華音に―――還る。

しかし―――

千華音の眼はただ一点に吸い寄せられてしまった。

媛子の―――。

薄いリップを引いただけの。

芳しく薫る小さな花のような。

闇夜に灯る小さな灯火のような。

ただ甘やかなそれに。

ただ仄かなそれに。

春に酔う蝶のように。

惹かれていく。

鼓動が高鳴る。

初めてのプリクラの時のように。

二人きりでローカル線に乗った時のように。

海で縋り付かれた時のように。

泣きながら胸に飛び込んできた時のように。

いや、その何倍も大きく。

何倍も、何倍も、何倍も大きく。

高く、激しく、鳴り響く。

その響きの中で。

皇月千華音を形作るもの全てが、もろもろと音もなく崩れていく。

積み上げてきた十五年の時も。

命より重い『御神娘』の使命も。

『棘』の永久氷壁も、

忌まわしい双磨の『影』も、

月狂(ルナティック)の洗礼も、

『お付き合い』の喜びさえも、

何もかもが崩れ、ただ掻き消され、真っ白く塗りつぶされて。

吸い寄せられるように。

吸い込まれるように。

媛子へと墜ちて行く。

千華音は気付いていなかった。

千華音が媛子に覆い被さるように迫っていることも。

「媛子……」

吐息のような声で、微かに呟いたことも。

その頬が赤く染まっていたことも。

千華音自身は気付いていなかった。

否、たとえ気付いていたところで、止まるはずもなかったろう。

その時、身体も、意識も、千華音のものではなかったのだから。

寝入る媛子と、のぞき込む千華音

媛子の寝息、その薫りが千華音の鼻孔を優しく擽る。

「媛子……」

太刀の切っ先は媛子ののど元に狙いを定めたまま。

唇に吐息を感じる。

密やかで恐ろしい甘美な温もりが、千華音の唇を心を焙る。

媛子……。

墜ちて、墜ちて、堕ち続けて。

千華音は。

ただ媛子の唇へと―――。

その時。

媛子の瞳が開いた。

「!?」

「千華音……ちゃん?」

千華音の瞳に映るのは、張り裂けんばかりに眼を見開いた媛子の姿。

その瞳が微かに、ほんの微かに潤んでいく。

遠雷の轟きが耳に響く。

夜の魔法は解け、理性の秒針が千華音の時を刻み出す。

津波のように押し寄せる困惑と、畏れの大波が、千華音の自我を翻弄する。

私は……何を……何をしようとしたの?

私は……。

美しき彫像と化した千華音の前で、媛子は……。

『御霊鎮め』の日。

二人の十六歳の誕生日まで、あと34日。

(次回へつづく)